2013年7月11日木曜日

山中伸弥先生の自伝を読んで

 山中伸弥先生の自伝を読んで

        「山中伸弥先生に人生とiPSについて聞いてみた」
  山中伸弥・緑慎也(聞き手) 著、2012.10.10発行、講談社、本体1200円+税


  昨年(2012年)末にノーベル医学・生理学賞を受賞された山中先生については、受賞発表直後からストックホルムでの授賞式にかけて多くの情報や先生の人となりが報道された。また、その後はiPSの研究事例が次々と発表され、つい先日も理化学研究所(神戸市)の目の「加齢黄斑変成」の臨床研究が始めて厚生労働省の審査委員会で了承され、iPSのヒトへの世界初の再生治療が始まろうとしている。

 この本はノーベル賞受賞発表直後に出版されたもので、「唯一の自伝」と書かれており、出版直後に読んで先生のキャリアに大変興味を引かれた。

 特に、先生が、神戸大→国立大阪病院→大阪市大(途中米国グラッドストン研究所に留学)→奈良先端大→京大、と多彩なキャリアを積まれた理由が先生本人の口で語られており、先生の生きざまに心を打たれた。

 東大阪でミシン部品の工場を営んでいた父親に生活の安定した医者になれといわれ、理学部を諦めて神戸大の医学部へ入学する。柔道やラグビーでよく骨折した縁で整形外科医を志したが、国立大阪病院での研修医のときに手術が下手で「ジャマナカ」と呼ばれて断念し、難病の患者を治したいと大阪市大大学院博士課程(薬理学専攻)を受け、基礎医学の道へ転進する。そして血圧降下剤の研究によって学位を取得した。
 続いて、ノックアウトマウス(遺伝子を変えて特定の機能を失わせたマウス)を使う研究をしたいと思い、その作成技術を習得するために、サンフランシスコのグラッドストン研究所へ3年間留学した。ここで「VW」(VisionとWork hard)とプレゼン力を教え込まれる。ハードワークのお蔭でガン抑制遺伝子と思われる新遺伝子NAT1を発見、この遺伝子の働きを抑制したノックアウトマウス3匹を持って大阪市大で助手として実験を継続したが、これはガン抑制の遺伝子ではなくマウス発生に必須の遺伝子であることが判明した。ここで、マウスの受精卵の中にあるES細胞(胚性幹細胞)の研究に転進する。ES細胞は高い増殖力と何にでもなれる分化多能性を持っている。

 1999年12月、奈良先端大でノックアウトマウスをつくる技術を持った助教授の公募があり、応募した。米国で身に着けたプレゼン力が効を奏し、特にスクリーンでポインターを動かさないで説明した点が、しっかりした教育を受けていると評価されて、採用された。初めて持った新設のラボへは新人は来てくれないとのうわさの中、新人の争奪戦でVisionをとうとうと話した。「ヒトの胚を使わずに体細胞からES細胞と同じような細胞をつくる。受精卵からつくるヒトの胚では倫理面と免疫拒絶反応で問題がある。一旦分化したヒトの細胞を何にでもなれる細胞に初期化したい」と。「実現には何十年かかるかわからない」とは伏せて言わなかった。こうして新人3名が入室し、技術員1名も配属された。
 ここから初期化のための遺伝子発見への挑戦が始まる。日、米でそれぞれ公開された遺伝子のデータベースを参考に、ES細胞の中の大切な遺伝子を100個選別し、実験で確かめて24個にまで絞り込んだ。

 いよいよヒトES細胞での実験が必要になってきたが、奈良先端大には医学部がなく、ヒトES細胞が扱えない。また倫理委員会設立を呼びかけたが進まない。こんな中、日本で唯一ヒトES細胞の培養に成功していた京大再生医科学研究所から誘いがあり、24個の遺伝子と研究者を携えて2004年10月京大へ移籍した。

 24個の遺伝子を必須の4個に絞り込み、皮膚細胞に送り込んで初期化に成功した。これをiPS細胞(induced pluripotent stem cells、人工多能性幹細胞)と名づけたが、これまでに発見した新しい遺伝子の名前を覚えてもらえないという悔しさから、iPODにあやかって命名した。そして国際的専門誌「Cell」に2006年8月に掲載された。
 2007年12月2日に大阪科学技術センターで山中先生の大阪科学賞の表彰式・受賞講演会が開催された。筆者は先生の名前も、iPS細胞も知らなかったが、若年型糖尿病、脊髄損傷、白血病などの治療が可能になると聞き、大変感銘を受けたことを昨日のことのように思い出す。なお、先生の受賞はこの後ノーベル賞受賞まで次々と続いたが、この大阪科学賞が最初の受賞ではないかと思う。
 それから5年、関西からノーベル賞受賞者が出たことを喜ぶと同時に、iPS細胞の創薬・治療への実用化がますます加速されることを心から祈りたい。                                                                                                                                    池田隆果 

2013年7月2日火曜日

海遊館の初代ジンベイザメに餌をやったことがあります

  ハッピーマンデイ制度により海の日は7月の第3月曜日ですが、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋日本の繁栄を願うこと」を趣旨として施行された当時は7月20日で、この日はもともと1941年に「海の記念日」として制定されたことに因んでいます。

 大阪府の「天保山ウォーターフロント再開発プロジェクト」の一環として、1990年7月20日に開館したのが「海遊館」で、新開発されたアクリルガラスを使用することで、これまでにない巨大水槽が実現しました。
 この海遊館を企画したのがラウス・カンパニー (創設者:James Wilson Rouse) で、シドニーのウォーターフロント開発に引き続いて手掛けました。シドニーの開発費用の土地買収費対建設費は3対7で、大阪のそれは逆に7対3とのことですので、大阪ではシドニーの2倍強の費用を要したことになります。
 ところで、「真実の行方」のアーロン役でアカデミー助演男優賞にノミネートされ、ゴールデングローブ賞助演男優賞を受賞した米国の有名な俳優 Edward Harrison Norton はRouse氏の孫に当たり、イェール大学史学科在学中に来日して、約1年間祖父の仕事を手伝いましたが、私が大阪府枚方市に住んでいた頃、大阪府の紹介で我が家にホームステイしていました。 
 海遊館が開館する3日前に報道関係者へ公開されましたが、当日の朝、Edward が「海遊館を案内する」と言うので訪れると、多くの報道関係者が詰めかけていましたので従業員入口から館内に入り、海遊館の内部を見学しました。ペンギンの居る水槽にはとりわけ多くの人が群がって、ペンギンが水中を上下するのを見ていましたが、我々は水槽の真裏の会議室からマジックミラーを通して、ペンギンと人の群れを同時に見ることができて不思議な気持ちでした。屋上はプラントの設備のように配管がレイアウトされていて、「太平洋水槽」ではジンベイザメの飼育担当者に促されて、バケツで何杯ものオキアミを与えましたが、水槽の上の通路が狭いので、ジンベイザメがあの大きな口を開けると、驚き・喜びと同時に不安を感じたことを今でも覚えています。
 Edward からは、上述したウォーターフロントの開発費用の内訳の話も聞きましたが、彼が我が家へ来た日に帰宅すると、「初めまして、私はエドワード・ノートンです」と流暢な日本語で挨拶しましたので、「日本語が上手ですね。いつ日本語を覚えたのですか」と尋ねると、「来日前に4週間、特訓をしました」、「大学では日本史を専攻しています」とのことでしたので、「歴代の德川将軍の名前が言えますか」と尋ねると、「専門は中世です」と言いながらも、家康から慶喜までスラスラと答えたのには驚きました。
 また、当時の米国では、ボランティア、特に外国でボランティアを経験すると、例えばニューヨークで就職する場合に非常に有利だとも言っていましたが、結局子役の経験もあることから俳優になったようです。                                            廣谷 倫成