12月21日にカザフスタンのバイコヌール宇宙基地から野口聡一飛行士ら3人の乗ったソユーズが打ち上げられ、23日に無事地球から240キロ離れた国際宇宙ステーションに到着した。長期外在は若田さん以来の快挙だろう。
しかし、はてなと思うことが出てきてしまった。
よく写真で見る宇宙から地球を眺めた写真を眼にする機会がある。何か宇宙船から地球を眺めた写真である。遥かな宇宙から、幾つかの渦巻いた雲が散見される青味がかった丸い地球の写真である。
ところが今、我が家の地球儀を眺めてみよう。地球の直径が約1万2千キロであるから、我が家の地球儀の直径約30センチは約5万分の1に縮小されている訳で、宇宙ステーションの地球から離れた約240キロの距離はこの地球儀の表面約6ミリの位置となる。酔っ払って計算したので少々計算に自信はないが、なんだ、あの遥かな国際宇宙ステーションも地球儀を前にすればたったの6ミリの表面なのかと聊かな驚きであった。
ここからが疑問である。地球儀を眺めて、その表面の僅かな6ミリのところから地球儀を眺めたら、とても地球儀の全体を捉えることは出来そうにない。もっと地球儀から離れて眺めなくてはとても地球儀の表面全体を見渡せないだろう。あのよく見る丸い地球の写真は、もっと遠方から眺めたのもなんだろうか。どう見ても地球儀から30センチは離れないと見渡せないだろう。と言う事は、あの地球の写真は実際の地球から約1万2千キロも離れないと駄目ではないか。これが第1の疑問である。
また、国際宇宙ステーションが地球から約240キロしか離れていないということは、何か遥か高い高い宇宙の彼方という概念も間違いだった。なんだ、そんなに離れていない地球のすぐ上空にいるのかと、逆に親近感を覚えてしまった。
240キロという距離は、大阪から浜松あたりまでの距離だろうか。東京からだと豊橋あたりまでの距離になるのかもしれない。我が愛車で大阪から名神、東名を飛ばせばたかだか3時間の走行時間だ。そこまで行くのに我が愛車のスピードとは比べ物にならない高速で、3日間もかかるのは一体何を道草してるのだろう。大袈裟すぎる。
直線距離で240キロを真っ直ぐに走って行くのではなく、地球の周回軌道を回りながら行くためなのかもしれない。それにしても我々の頭脳では、どうも横の水平距離と高さでの距離感覚は何かだいぶん違ったスケールを想像してしまうようだ。
たとえば、富士山の標高3千7百メートルは、なんと横にすれば我が家からウオーキングで歩く距離である。早足で歩けば1時間もかからない。しかし、実際の富士登山では麓の富士吉田から歩き始めればたっぷりとまる1日かかる。これは垂直に梯子のようなもので3キロを登るのではなく、位置エネルギーに抗しながら登るために、ほぼ水平距離とあまり変わらない勾配でジグザグに登るため、折り返しながら高さの数十倍の距離を歩くことになる。
しかも位置エネルギーに抗しながらである。
宇宙船も地球の引力に抗しながらで相対速度は落ちるのだろうか。いやいやちょっと地球から離れれば、地球の引力圏からは影響を受けない筈だ。やはり何処かで道草を食っているに違いない。
大阪から東京に行くときに、いつも飛行機を利用する。あの高度6千メートルから眺める地上の風景も、考えてみれば水平距離の6キロと言えば電車で一駅の距離である。飛行機から眺めたときにはもっと遥かな距離を感じてしまう。どうも水平距離の距離感と垂直の距離感はだいぶん違った感覚を持ってしまうのは私だけなのだろうか。
いま、明け方近くに、南の空を駆け抜ける国際宇宙ステーションが肉眼ではっきりと見えるそうだ。身を切る寒さに耐えながら、240キロ離れた(或いは240キロの近くの)宇宙ステーションをじかに眺めてみればまた違った感覚を味わうことになるのかもしれない。
梶原孝生