2010年7月22日木曜日

暑中のこと


皆様 暑さ厳しい中 如何お過ごしでしょうか。
今年は梅雨が明けると同時に猛暑がやってきました。昔から「梅雨明け10日」と言はれるとおり、猛烈な暑さですね。この暑さは尋常じゃないです。自然は間違いなく巡行している証しですね。
京都・祇園祭の山鉾巡行と共に 全国一斉に「夏」になりました。

暦の上でも 明日(23日)は「大暑(たいしょ)」です。また、暦の雑節では20日が土用の入りで、この日から「立秋」(今年は8月8日)の前日までが「夏の土用」の期間とされています。
夏の土用と言えば「土用丑の日」が有名ですね。昨年は「土用丑の日」が2回ありましたが、今年は普通に1回(7月26日)です。
夏の土用の時期は暑さが厳しく夏バテをしやすい時期ですから、昔から「精の付くもの」を食べる習慣があり、土用蜆(しじみ)、土用餅、土用卵などの言葉が今も残っています。また精の付くものとしては「ウナギ」も奈良時代頃から言はれていたようで、土用ウナギという風に結びついたのでしょう。
今日のように「夏の土用」にウナギを食べる習慣が一般化したきっかけは、そんなに古い事ではないようです。聞くところによれば、幕末の万能学者として有名な平賀源内が、夏場にウナギが売れないので何とかしたいと近所のウナギ屋に相談され、「本日丑の日」と書いた張り紙を店に張り出したところ、大変売れて繁盛した、ことがきっかけだと言われています。でも、「本日丑の日」でなぜ売れたのか私には今ひとつ納得出来ないのですが・・・。(事の真偽は請け負いかねます)

田村順造

2010年5月14日金曜日

葵祭

私は幼少時代を京都の北白川・下鴨で過ごしましたので、毎年この時期になると思い出すのですが、今週末の15日は「京の三大祭」(葵祭、祇園祭、時代祭)の最初の「葵祭」が行はれます。(私は何度か下鴨神社の境内や加茂川の土手沿いで見物しました)
その起源は6世紀ごろとも言われ、歴史的には古いのでしょうが、世間に知られるようになるのは平安時代中頃(10~11世紀)からです。
その後、応仁の乱で祭りは途絶えますが、明治17年に復興、終戦頃に10年ほど途切れましたが、現在は大変な賑わいです。
葵祭りは、平安朝の優雅な古典行列で、平安貴族そのままの姿で列を作り、京都御所を出発、総勢約500名の風雅な行列が、下鴨神社を経て、若葉に薫る加茂川堤を 長閑に 上賀茂神社へ向かいます。
まだ、ご覧になっていない方は、お天気が良ければ、ご覧になられては 如何でしょうか。(テレビでも放映してくれるでしょうが・・・)

葵祭りといえば、やはり「源氏物語」の「葵の巻」にある、葵祭の斎王列の見物に出掛けた葵の上(光源氏の正妻)と六条の御息所(光源氏の元の愛人)が「車争い」でトラブルを起こし、負けた六条の御息所の生霊が葵の上にとりつく、という話が思い出されます。

祭りの行列の牛車は飾り草として、新鮮な葵(正式名はフタバアオイ、徳川の三つ葉葵は実在しない、単なる紋章です)で飾られます。祭り全体で約1万本が必要らしいです。
二葉葵は昔は上賀茂神社の裏山に群生していましたが、自然環境が変わって、最近はすっかり無くなり、個人が庭で人工的に育てているのに頼る始末で、いずれ、造花になるのではないかと心配されているようです。 
                              田村順造

2010年3月22日月曜日

春分の日

今日は月曜日ですが 昨日の祝日「春分の日」(3月21日)の振り替え休日です。皆様も3連休を有効にお過ごしのことでしょう。ご家族で、お墓参りに出かけられた方もおられるのではないでしょうか。

終戦後の「祝祭日の改廃」により制定された「国民祝日に関する法律」によりますと、「春分の日」は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」と定められています。 でも 一般には「春のお彼岸」として考えている人たちが多いのではないでしょうか。
ところで、彼岸という言葉は、古代インド語のパーラミター(波羅蜜多)が語源で、意味は「彼の岸へ至る」ということで、煩悩や迷いに満ちたこの世を「此岸」というのに対し、悟りの世界・仏の世界を「彼岸」と言うのだそうです。
日本では、昔(平安時代 大同元年(806年)が最初?。)から、「彼岸」という言葉を「あの世」と解釈して、亡くなられた人々を供養するという意味から お彼岸には ご先祖の供養のために、お墓参りをする風習がありますが、その理由の一つは、太陽が真西に沈むことから、西方極楽浄土の信仰と結びついた日本独自の仏教行事とされ、お墓参りをするようになった様です。

「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように お彼岸は季節のくぎりです。「春分の日」は、秋の「秋分」とともに一年に二回の、昼と夜との長さが同じ日、つまり、太陽が真東から昇り、真西に沈む、最も自然の調和のとれた日なのだそうです。

私は一昨年エジプトを旅行した際に訪れた「アブ・シンベル大神殿」(新王国のB.C.1250年ごろラムセス2世により建造された)では、「年に2回(春分と秋分の日)日の出とともに神殿の奥まで日の光が届き、神殿の奥の神像を明るく照らす。」と説明を聞き、さすがに、天文学の発達した太陽神信仰の強い古代のエジプトならではの遺跡だと感じたことを思い出しました。
この遺跡は、アスワンハイダム建設に際して湖底に沈む事がわかり、1964年~1968年 ユネスコが中心になって各国から資金(4千万ドル)を集め、もとの場所より60m高い場所へと引越しを行ったことでも知られており、世界文化遺産保護活動のきっかけとなったといわれています。


同じ春分に、古代エジプトでは真東から昇る太陽を崇め、一方古来 日本では真西に沈む太陽を見て、西方極楽浄土での死後の救済を願っています。 日の出と日の入りの違いはあるものの、大自然をたたえる気持ちには変わりなく 連綿と現在まで引き継がれているのですね。 

           田村 順造

春の陽光

4月の陽気かと思えば、厳冬に戻り、都会にも大雪の状況。まさに三寒四温の春の到来前の出来事なのでしょうか。
そう言えば、つい先日の春ののどかさに庭を見渡せば、木蓮にあたる陽光が厳冬期の弱々しい光とは違って、何か明るい春の到来を賛歌している生き生きとした陽炎までも感じるような勢いを感じさせました。
毎年、この頃になると決まって感じる春の光の明るさなのです。何か冬の太陽光とは違って、春だぞーと鐘を鳴らしてでもいるような輝きを感じてしまうのです。
確かに真冬の弱々しい、輝いていても寒さにさらされた太陽の光とは違って、燃えるような陽炎を感じる光の洪水です。
いったいこれは何なんだろうと不思議な感覚を覚えます。

真冬の太陽の軌跡はずっと南に寄っているので、角度も違うでしょう。そうすると、太陽光が大気を通過する厚みも違って来る筈です。従って大気での光の吸収量も違ってくるでしょう。吸収のスペクトル特性を見れば、冬のスペクトル分布は春の分布に比べて長波長側が伸びていて、青の吸収が多いのではないか、そのため春は冬より青み増して力強く感じられるのではないかと考えたのです。

企業の照明研究所にいた頃、部下に大気の吸収スペクトル特性を調べさせたことがありました。太陽光の波長分布特性の季節による分布特性差です。しかし、残念ながらその有意差は認められませんでした。
写真の趣味の方はご存知のように、色温度というものがあります。黒体放射の色と対比したときの黒体の温度をもって色温度とするもので、通常はケルビン温度で表わされます。
色温度は高いほど波長が短いほうによりますが、この冬の太陽光に対して春になると太陽光の色温度も気温に比例して高くなると考えてはいけないのでしょうか。
この辺になるとどうも私の知識の未熟さを暴露するのですが、どう考えても春の陽光のまぶしさは何か冬とは違った明るさと暖かさを感じさせます。猛烈な黄砂が日本列島を襲い、一昨日は日本中が黄砂で視界も効かない酷い状況でしたが、この黄砂が去った今日は本当に春を感じる暖かな陽光です。
散歩をしていると、家々の庭の木蓮かコブシが真っ白な花を咲かせています。私には残念ながらコブシなのか木蓮なのか解かりません。私の解かるのはせいぜい桜ともみじとチューリップとひまわりくらいです。しかし、この春を満喫する花々の美しさを見るにつけ、春の陽光の不思議さを感じずには居られません。
                              梶原孝生

”宇宙への疑問”の回答

友人から宇宙への疑問の解答を頂きました。

シドニーの友人で著名なジャーナリストの方から解答を頂きました。
その方からの頂いた文を転記します。

アメリカ航空宇宙局(NASA)が、今月の2日、史上最も精査な地球の合成画像というのをを公開しました。実は、この公開を待っていたのですが、ここに、先日、梶原 孝生さんが宇宙への疑問の中で述べられていた回答がひそんでいます。あの画像は、見事なものですが、地球観測衛星テラが撮影した数千枚の画像を合成したもの、となっています。

そして、NASAの説明は、米海洋大気局のAVHRRセンサーで得られたデータも加味したと、しています。相当な精度と考えてよいと思います。

現在、地球観測衛星「テラ」のほかに、「アクア」が回っています。この二つには、36バンドの観測波長帯を持つ光学センサーが搭載されています。

この二つの観測衛星のうち、「テラ」は、1999年12月に打ち上げられました。

軌道の高さは、705キロです。1周99分で回っています。

観測幅は2330キロと発表されていますが、実のところはもっとやっているかもしれません。わかりません。

2日に公開された映像には、さらに海洋大気局のAVHRRセンサーのデジタル処理された画像も加えているということす。このAVHRRというのは、もう飛んですでに30年になります。ベトナムがカンボジアに侵攻した年に打ちあがった衛星に搭載されました。AVHRRの最初のAはAdvancedのAですが、地球を全部観測している貴重なセンサーです。30年たってもadvencedといえるのは、雲の画像というか情報を得るのに、極めて優れものです。
発表国がアメリカですから、どうしてもアメリカが中心に入った地球の映像になりますが、パッチワークですので、高度705キロから撮った画像でも、裏方のパッチワーク技術によって、地球の全貌を見せることができるというものです。

ちなみに、ご存知と思いますが、国際宇宙ステーション(ISS)は最低高度280km~最高高度460Kmの間を日によって高度を変えながら飛んでいまして、窓も小さいため地球は1/4~1/6?位しか見えないようです。 ISSの高度は大気の抵抗などで絶えず低下をつづけていますので、年に何回かブーストで軌道を数キロあげる必要があります。まあ、最高高度でも上記に書いたくらいです。

あとは、気象衛星です。日本のひまわりは、軌道高度 約36,000km ですが、東経140度上の静止衛星軌道です。

最新の画像をお楽しみになってください。
誰もみていないところの画像を、処理して作る・・これが正解のようです。
シドニー・ボーイ
以上で眼からウロコが落ちました。             梶原孝生

2010年3月19日金曜日

靱公園の”靱”のいわれ

私は 昨日、大阪科学技術センターへ出かけましたが、なんと靱公園の桜も大きく蕾みをふくらませておりました。 

ところで、この我々の本拠地である大阪科学技術センターの所在地一帯が、今では靱公園として広く市民に知られていますが、なぜ、「靱」と名付けられたのかご存知でしょうか? 

むかしは、この辺り一帯は、乾物の魚、干し鰯などを商う問屋や仲買商などが軒を連ね、毎日市を開いていた場所で、商人たちが「安い、安い」と大声を張りあげて、商いをしておりました。

丁度、たまたまそこを通りかかった太閤さま(豊臣秀吉)が、その売り声を聞き、安 と 矢巣(矢入れ)をひっかけて、「やす(安=矢巣)なら、うつぼ(矢入れ)ではないか」と洒落を言ったというのが、土地の人の聞き及ぶところとなり、この辺りを「靱(うつぼ)」という地名にしたと言い伝えられているのだそうです。

伝説にしても、私は少し無理があるようにも思いますが、言い伝えとは 案外そんなことが多いようですね。
                              田村 順造

2010年3月9日火曜日

奈良のお水取りは今年で1259回目です。

天気予報によると、今週は天候も雨や曇りがちで、冬の寒さが戻って来るらしいです。先週の温かさは 何だったのでしょうか。 
「春は名のみの 風の寒さや 谷の鶯 歌は思えど・・・」とこの時期になると「早春賦」がおもいだされ つい口をついて出てきます。
やはり、関西では 古くから言われているように「お水取りが 済まないと まだ本格的な春にはならない・・・」

ところで、奈良のお水取は いつだったかなーー 確か 3月の初めだった?  そうそう、3月1日~14日に 奈良・東大寺の二月堂で今行なわれています。
なんと、今年で 1259回目だそうです。よく続いて来たものですね。 

昔々、天平勝宝3年(752年)東大寺の実忠(じっちゅう)という僧侶が二月堂を建てて、始められたのだそうです。今では 3月12日の籠松明の場面が有名ですが、その舞台裏では、11人の練行衆による1か月にわたる厳しい厳しい修行があるのだそうです。
何故「お水取り」と言うのかというと、3月12日の真夜中、すなわち13日の早朝、三時頃に行なわれる行事に由来します。二月堂下の閼伽井屋(若狭井戸)から本尊(十一面観音)にお供えする香水を汲み上げるための行法を「お水取り(修二会、しゅにえ)」ということにあるのだそうです。
3月15日未明の満行を見届けて、ほっとしたように春が奈良にやって来ると言われています。
                             田村 順造

2010年2月23日火曜日

初めてのインドの旅

先日家内とインドに行ってきました、タージマハールは期待した通りに素晴らしいところでしたし宮殿やお城も立派なものでした。
しかし毎日バスで移動して交通状況には驚かされました、高速道路(有料)は片側2車線で綺麗に舗装されていますが普通の道と平面交差でなんでも通ります。高速道路で見たものをあげると限りが有りませんがインドでは有名な牛を始め犬、猿、羊の群れ、化粧をした象、歩行者、旗を立てた巡礼の群れ、2車線にまたがって歩く布で包んだ死体を担いだ葬式の行列、自転車、人力車、荷馬車、荷ラクダ車、オートバイ、人を満載した車を引くトラクター、それに乗用車・バス・トラックですが何れも積載量は想像を絶する満載です。また路肩を逆行してくる小型車、内側車線を逆行してくる大型トラックも珍しくありません(高速道路は中央分離帯がありその切れている所が何キロも間隔が空いているので横道から入った車は入った側の進行方向が逆の場合次の分離帯の切れ目まで逆行するのが普通で渋滞した時は勝手に逆コースに入るそうです)。

インドで一番多い乗合自動車は昔のダイハツミゼットくらいの3輪車で通常この車に11~12名乗ります、1列目には中央に運転手でその左右に2~3名乗ります、2列目は1列目と背中合わせで4人座り3列目は2列目と向かい合って4人座ります、2列目と3列目の間は20~30センチくらいでここに8人の脚が入ります。通常は後ろに壁が有って11~12名乗りです、私たちも体験でこの車に8人で乗りました、私は運転手の横に座ったのですが体は社内に入ったものの頭は屋根のフレームが邪魔をして外に出したままでした。もちろんドアなど皆無です、この3輪車が時には後ろの壁が切り取られそこに後ろを向いた4列目の座席が作られ定員が4人増えます、4列目の乗客はお尻は社内ですが頭や手足は後方の社外です(左の写真)。もっとすさまじいのは1度だけ見ましたがそのうえ屋根の上に荷台を付けそこに4~5人しゃがんでいました。
人をたくさん載せることでは人力車も負けていません6人くらいは平気です(右の写真)。

人間でもこれくらい乗せるのですから荷物の場合はもっと頑張ります(下の写真)車輪の間隔と荷物の幅を比べてください、この写真は後ろから取りましたがトラックを横から見ても積み荷は後方に大きくはみ出しています。
その道で載せてもらったバスは先行するトラックと車間距離3~5mで早く除けと警笛を鳴らし続け追い越しの連続ですがシートベルトはついていません。インドはいろんな環境が悪いので長居は無用と5日間のツアーでしたが帰国時にはインドを満喫できたと言う満足感と安堵感で一杯でした。しかしインドの人々の貧しいけれどもそのたくましさに感心させられました。

皆さんご存知でしょうが昔のギャグに「インド人もびっくり」と言うのが有りました、私はなぜインド人なのかと疑問に思っていましたが今回の旅行であのインド人が驚くなら余程のことだと納得しました。
                               吉田良耿



2010年2月1日月曜日

冬期オリンピックが始まります

いよいよバンクーバーの冬季オリンピックがあと13日で始まります。わくわく して待っています。
私はカナダのバンクーバーが大好きで、今回のアルペン競技の会場となるバンクーバーの市内から3時間の北にあるウイスラーに毎年スキーに出かけています。もう、かれこれ14年、15~6回も行っているでしょうか。ある年は1月に行って、一旦、日本に戻って今度はスイスに滑りに行って、また日本に戻ってウイスラーに滑りに行った年もありました。また、5月のバンクーバーで満開の石楠花に圧倒され、ここから大陸横断鉄道VIAでジャスパーまで行き、カナディアンロッキーの大氷河を見に行ったこともあります。日本では石楠花は高山植物として富士山の上のほうや、北アルプスで良く見かけますが、バンクーバーの南でアメリカとの国境を越えたイチローやビルゲイツでおなじみのシアトルでは市の花が石楠花です。シアトルやバンクーバーの石楠花は日本のものと違って、大きな樹木で、花も赤や黄色、ピンクと華やかで至る所にあでやかな花を咲かせています。

バンクバーを大好きな理由の第1は、先ず空気が綺麗と言うことでしょうか。バンクーバーの国際空港に降り立って、空港から北を望むと空港から直線距離で約10キロのダウンタウンの林立した高層ビル街が見えて更にその先30キロにノースバンクーバーの白銀の山々が聳え立って見えます。大阪で我が家から40キロの生駒山や僅か20キロの六甲山だってこんなに綺麗には見えません。やはり空気が澄み切っているからでしょうか。なんと南には遥かにシアトルより先の白銀の独立峰レーニア山までもがかすかながら見えるのです。

空港で入国審査を済ませ、外に出たときの空気のうまさは、日本に帰ってきて関西空港の外に出て思わず息をとめてしまう情けなさと対照的に思わず深呼吸をしてしまいます。半導体のクリーンルームの空気の清浄度を示すレベルで言うならばクラス0.1でしょうか。
バンクーバーのダウンタウンを入り江のほうに降りて行って、パンパシフィックホテルの辺から有名なスタンレイパークを眺めると、その先に美しいライオンブリッジが見えます。まさにこれはサンフランシスコの金門橋を真似て造った橋でそっくりです。その光景もよく似ています。
オリンピックのアルペンスキー競技のウイスラーはこの橋を渡って北に約70キロ行ったところで、広大なしかもダイナミックなスキー場です。

例年、バンクーバーのダウンタウンですし屋にも入ります。昨年はここで「真央ロール」とか言って一昨年、浅田真央が気に入って食べて名前がついたカリフォルニアロールの変形巻き寿司を食べました。味は大したこともないのですが、おじさん達は可愛い真央チャンを想って喜んで食べていました。

もう8年前になりますが、米国ソルトレークでの冬季オリンピックで、アイスホッケー戦でカナダがアメリカを負かしたときには、バンクーバーは大騒ぎで、昔々阪神タイガースが優勝して道頓堀に飛び込む若者が絶えなかった馬鹿騒ぎどころではありませんでした。
ロブソンストリート(銀座に相当する)には車の屋根に上がって花火をかざして、あの冬の寒い中を上半身裸で騒ぐ若者で溢れかえりました。至る所で爆竹も鳴り大騒ぎでした。
カナダの連中は意外にもアメリカが大嫌いだという者が多いようです。理由を聞くとカナダよりアメリカを上に見ているからだと言っいたので成る程と思いました。アイスホッケーはカナダの国技のようなものなのに、いつもアメリカには負けていたのでこのときには国を挙げての大騒ぎでも無理なかったのでしょう。

バンクーバーに限らず、北米や欧州でも不思議に思う事として、彼らが寒さをあまり感じないことです。ウイスラーのスキー場の夜の街を、Tシャツ一枚で平気で歩いています。こっちは頭巾つきのコートを羽織っているのに、その前を平気でTシャツ一枚の若者が闊歩して行きます。もう一つ思うのは、雨も気にしません。
何時だったかニューヨークの街角で雨にあいました。外人は平気で濡れて歩いているのです。連中はステーキばかり食べるので顔も油で弾くのでしょうか。真似して濡れてみましたが、とても我慢できず、レストランに飛び込んで、背広の雨滴をハンカチで拭ったりしましたが、連中は平気です。ロンドンでは傘を持って歩くのが紳士のお洒落かもしれませんが、北米では傘を持っている人を見かけません。

そう言えば、雪の札幌でも現地の人たちは傘をさしていませんでした。我々だけが大仰に傘に積もる雪を払うのに懸命でしたことを思い出しました。しかし、外人の雨に濡れるのと、Tシャツ一枚にはいつも驚かされます。

まもなく始まるスキーのアルペン競技で、昨年、私たちも滑ったオリンピックコースを選手がどんな様子で走り抜けるのかをテレビで眺めるのが今から楽しみです。
                             梶原孝生

2010年1月17日日曜日

かつて堺県があり、奈良県がなかったときがあった!


奈良では今年(平成22年―西暦2010年)を、「平城遷都1300年」と称し、さまざまなイベントを繰り広げる計画があります。
また、奈良はシルクロードの東の終着点としても重要な意味を持ち、人類共通の文化遺産であるシルクロードが世界遺産に登録されるという話もあるそうです。
奈良=大和の国は、古い歴史に彩られ、日本最古の政治の中心地であり、私たち日本人の心の故郷であることは、誰しも疑いのないことだと思います。

倭(やまと)は 国のまほろば 
  たたなづく 青垣 
   山隠(やまこも)れる 倭しうるはし
(日本書紀に第12代景行天皇の望郷歌とされている和歌)
まほろばとは、「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。

この和歌からも察せられるように、古代の人達が奈良を日本の中心地として国づくりをすすめ、やがて京都へと都を移したものの、その後も奈良と京都が日本文化の根源であり続けています。
ところが、驚いた事に、この「奈良」が県名から消えた時期があるのです。
幕末の動乱期(明治維新)に「廃藩置県(明治4年7月 3府302県が成立)」が行われ、更に その年11月に 3府72県に統合、そしてその後 現在の府県制が定着するまでに、二転三転の大変動(組み替え)がありました。
すなわち、明治元年5月に、摂津・河内・和泉の三国は大阪府として発足しましたが、翌月には和泉国を分離して「堺県」(今は無い)が設置されました。
その後 明治4年に堺県は、さらに河内国14郡つまり淀川の南を取り込み大阪府よりも大きな県になりました。その上、明治9年には奈良県全部を統合してしまう事になります。(地図参照)。
この時点で、名誉ある 誇り高き奈良県という名前がなくなるのです。奈良の皆さんに限らず、何んとも理不尽な事だと思いませんか。(堺の人は別かな)。
明治11年には、全国的に区郡制がしかれ、堺県下には、1区9郡が置かれました。1区は堺区でそこには区役所が置かれ、9郡は湊、岸和田、古市、八尾、枚方、奈良、三輪、御所、五条の各郡で、それぞれ郡役所が置かれたのです。気の毒な事に、奈良市は「堺県 奈良郡」となりました。
やはり、これには大分無理があったようで、明治14年になると堺県は全部廃止(堺は大鳥郡 堺)となり、奈良もろとも大阪府に併合されます。
次いで、明治20年11月には、やっと奈良県が大阪府より分立され、奈良市は奈良県 添上郡 奈良町となります。奈良県は再び奈良県にもどったのです。
明治23年にほぼ現在の府県制、群制度が確定しますが、堺県が存在したのは明治元年から14年まで。奈良県が史上から消えたのは明治9年から明治20年までという事になります。
皆さん、政権が替ると、こんなことも起こるものですね。
                            田村順造

2010年1月1日金曜日

宇宙への疑問

12月21日にカザフスタンのバイコヌール宇宙基地から野口聡一飛行士ら3人の乗ったソユーズが打ち上げられ、23日に無事地球から240キロ離れた国際宇宙ステーションに到着した。長期外在は若田さん以来の快挙だろう。
しかし、はてなと思うことが出てきてしまった。

よく写真で見る宇宙から地球を眺めた写真を眼にする機会がある。何か宇宙船から地球を眺めた写真である。遥かな宇宙から、幾つかの渦巻いた雲が散見される青味がかった丸い地球の写真である。
         
ところが今、我が家の地球儀を眺めてみよう。地球の直径が約1万2千キロであるから、我が家の地球儀の直径約30センチは約5万分の1に縮小されている訳で、宇宙ステーションの地球から離れた約240キロの距離はこの地球儀の表面約6ミリの位置となる。酔っ払って計算したので少々計算に自信はないが、なんだ、あの遥かな国際宇宙ステーションも地球儀を前にすればたったの6ミリの表面なのかと聊かな驚きであった。     

ここからが疑問である。地球儀を眺めて、その表面の僅かな6ミリのところから地球儀を眺めたら、とても地球儀の全体を捉えることは出来そうにない。もっと地球儀から離れて眺めなくてはとても地球儀の表面全体を見渡せないだろう。あのよく見る丸い地球の写真は、もっと遠方から眺めたのもなんだろうか。どう見ても地球儀から30センチは離れないと見渡せないだろう。と言う事は、あの地球の写真は実際の地球から約1万2千キロも離れないと駄目ではないか。これが第1の疑問である。
       
また、国際宇宙ステーションが地球から約240キロしか離れていないということは、何か遥か高い高い宇宙の彼方という概念も間違いだった。なんだ、そんなに離れていない地球のすぐ上空にいるのかと、逆に親近感を覚えてしまった。
         
240キロという距離は、大阪から浜松あたりまでの距離だろうか。東京からだと豊橋あたりまでの距離になるのかもしれない。我が愛車で大阪から名神、東名を飛ばせばたかだか3時間の走行時間だ。そこまで行くのに我が愛車のスピードとは比べ物にならない高速で、3日間もかかるのは一体何を道草してるのだろう。大袈裟すぎる。
         
直線距離で240キロを真っ直ぐに走って行くのではなく、地球の周回軌道を回りながら行くためなのかもしれない。それにしても我々の頭脳では、どうも横の水平距離と高さでの距離感覚は何かだいぶん違ったスケールを想像してしまうようだ。
         
たとえば、富士山の標高3千7百メートルは、なんと横にすれば我が家からウオーキングで歩く距離である。早足で歩けば1時間もかからない。しかし、実際の富士登山では麓の富士吉田から歩き始めればたっぷりとまる1日かかる。これは垂直に梯子のようなもので3キロを登るのではなく、位置エネルギーに抗しながら登るために、ほぼ水平距離とあまり変わらない勾配でジグザグに登るため、折り返しながら高さの数十倍の距離を歩くことになる。
       
しかも位置エネルギーに抗しながらである。

宇宙船も地球の引力に抗しながらで相対速度は落ちるのだろうか。いやいやちょっと地球から離れれば、地球の引力圏からは影響を受けない筈だ。やはり何処かで道草を食っているに違いない。
         
大阪から東京に行くときに、いつも飛行機を利用する。あの高度6千メートルから眺める地上の風景も、考えてみれば水平距離の6キロと言えば電車で一駅の距離である。飛行機から眺めたときにはもっと遥かな距離を感じてしまう。どうも水平距離の距離感と垂直の距離感はだいぶん違った感覚を持ってしまうのは私だけなのだろうか。
         
いま、明け方近くに、南の空を駆け抜ける国際宇宙ステーションが肉眼ではっきりと見えるそうだ。身を切る寒さに耐えながら、240キロ離れた(或いは240キロの近くの)宇宙ステーションをじかに眺めてみればまた違った感覚を味わうことになるのかもしれない。
                             梶原孝生